みかんのゴミ捨て場

方向性は台風よりも定まってないです!!

文章書いたら5000円もらえた話

 金が要らない人間などいるのだろうか、いやいない。という事で私はたまたま目に入った最優秀賞 賞金50万円の文字に踊らされ、あるエッセイコンテストに応募することを決意した。テーマは「2050年の社会」みたいな感じだった。当然ながら私は全く2050年の社会には興味はない。ただ私にあったのは金に対する執着だけだったのだ。

 それからというもの私はネタ出しや構成を考えることに注力した。応募条件が書いてあるホームページを穴が開くほど眺め、偉い人の言葉からどのようなエッセイがウケるのかを把握し、健やかなるときも病める時もそのエッセイもしくはその賞金を想い続けた。その甲斐あってか2週間後にはなんとなくのテーマやエピソード、そしてその構成は大方頭の中で仕上がってきたのだった。内容はテレパシーできたらいいね、とかそういうどうでもいい物だったのでここには記さない。

 ついに作業は頭の中にあるものをアウトプットする段階まで進んだ。要するに私はエッセイを書き始めたのだ。ただこのころになるともう金に対する執念薄れ、正直これを書くのが面倒になってきていた。暇なときにポチポチとスマホに打ち込むこと数日、私は気づきを得た。文章を面白くする方法とかそういうのではなく、締め切りの存在だ。ちなみにそのデッドラインまであと5日。学生である自分は部活や塾など放課後に多くの時間を取られてしまう。実質、私に使える時間はもうほとんど残されていないのだった。それでも何とか部活や塾の後の電車の中で寝落ちしそうになりながら書いたりして、締め切り数分前にはメールを送ることができた。翌日には原稿を受け取った旨の連絡が来たので、滑り込みセーフといったところだろうか。

 あとは結果を待つだけだ。賞金に思いをはせながら私は待ち続けた。いかに最後だれてしまったといっても、しっかりと構成を練ったり、行き当たりばったりにならないようテーマをちゃんと決めて書いた自信作ではあった。そして賞の発表の日、私の名前および作文の題名はホームページに載ることはなかった。最優秀賞は何やら理系っぽくて小難しい内容だった気がする。自信作が否定されたような気がして私はショックを受けた。まあそれでも学生がお遊びで書いたものだ。そう考えて気持ちを切り替え、私の生活はいつも通りになった。

 しかし、退屈ないつも通りはそう長くは続かなかった。ある日私宛にある封筒が届いたのだ。なんとそのあて先はエッセイを行っていた会社だった。もしかして何かワンチャンあったのかと思い期待に胸を膨らませながら、少し大きめの封筒をびりびりに引き裂きながら開けると中には手帳、ボールペンそして謎の手紙がはいっていた。その手紙には、お前の作品が最終選考まで残ったから努力賞として諸々の品と金券をあげます。みたいなことが書いてあった。もう一度封筒をひっくり返すと確かに中にはアマゾンギフト券があるではないか。なんとその金額は5000円だ。学生にとっては大金であるそのカードは、空っぽの財布を温めると同時に私の少し傷ついた自尊心まで温めてくれるようだった。

 それからしばらく私は喜び続けた。何なら封筒が届いてから数か月たつ今でも喜びのあまり踊りだしたくなる。なぜそこまでうれしいのか。それはここで書くのをためらうくらいどうでもいい内容のエッセイだったしても、それに5000円の価値を見出してくれる人がいたからに違いない。

宇治抹茶クリームパン

最近私が感動したことの一つとして、部活の後輩の天才的な選択が挙げられる。

それは部活終わりのことだ。食べ盛りの学生としては、昼に食べるお弁当だけで運動部での激しいエネルギー消費を賄えるとは思えない。よって帰り道でパンの買い食いをするのだ。

私が買い食いをする店では、タイムセール時にパンを2つ買うことで割引するという、男子高校生であってもなくても嬉しい仕組みが敷かれている。そのため私は部活帰りにはパンを2つ買うことがルーティーンとなっている。普段そこでは少しでもすきっ腹を満たすために、固くて沢山噛まなくてはいけないようなパン、つまりはガーリックフランスを食べて満腹中枢を刺激している。あとひとつは自由枠としてその時に食べたい物を好きに買っているのだった。

そしていつかの部活からの帰り道のことである。その日私は無性にコロッケパンが食べたかったため、まずコロッケパンを手に取った。そしてもうひとつはいつものガーリックフランスをこなれた手つきで取ろうとした瞬間、後輩の手が私の目指そうとしたパンとは別の方向へ行き、迷わずあるパンを手に取った。そのパンと彼の選択は自分の狭苦しい固まりきった選択肢をぶち壊し、私に、ニュートンが落ちているりんごを見た時や、アルキメデスエウレカと叫びながら裸で街を走り回った時に近しい衝撃を与えた。

後輩が選んだパンとは「宇治抹茶クリームパン」なのであった。なんだそんなものかと思われる方もいらっしゃるだろう。しかし、その選択は当時の私にとって天地がひっくり返る程のショックを与えた事は間違えようのない事実だ。
私がなぜ宇治抹茶クリームパンに対してこのような高い評価を与えているのかということに対してもちろん理由がある。

それは、宇治抹茶クリームパンが持つ糖分だ。運動をした後に人は糖分ではなくタンパク質や脂質を取ることが一般的では無いだろうか。なぜならタンパク質は疲労した筋肉を治すのに不可欠であるし、脂質は他の栄養素と比べてもカロリー効率が高い。にもかかわらず糖分を取るということは一見、非効率的に見えなくもない。しかし、糖分は効率では測りきれないものがある。それは糖の麻薬としての側面だ。糖は違法な麻薬ほどではないにしろ脳から快楽物質を出す。それにより人は幸せになれるのだ。つまり宇治抹茶クリームパンには腹は満たせなくても人を幸せにする力はある。

体の安息より、心の安息をとる。私はそんな後輩の姿にひどく感心したのだ。

怨嗟の声

私は英語が嫌いだ。憎んでいると言っても過言ではないだろう。ではなぜ私は英語が嫌いなのか。その理由、そして解決策を塾にいってきて頭が疲れているうえ、満員電車の中にいて機嫌が悪い状態で考えてみた。
恐らく自分が英語が嫌いなただ1つの理由は「出来ない」ということだ。出来ないことの授業や宿題をやり続け、さらにその集大成とも言えるテストでの点数も低いとなれば、英語が嫌いにならない方が難しいだろう。
ただしこれを正攻法で解決しようとすると、英語をもっと勉強して、英語ができるようにしなければならない。となるともっと英語ができない自分を見せつけられてしまう。それはさらに英語が嫌いになる悪循環のはじまりである。
普通ならここで解決策を出す頃であるが、私はこの悪口を止めるつもりはない。そもそもなぜ私たちは英語を学ばなければならないのだろうか。私と同じ学生であればそれは受験のためだろう。なぜ受験に使うのか、それは社会人になった時使うからだ。その社会ではグローバル化というのが騒がれている。私はそれこそが英語がさも世界の公用語であるかのように扱われている原因だと考えている。
第一次世界大戦の特需景気によってアメリカは大きく経済的に成長した。そして第二次世界大戦においても、彼国は勝利を収めた。それからソ連が崩壊し冷戦が終わり、 アメリカは世界の警察としての地位を確固たるものとした。これらの事を経て現在アメリカは、グローバル化の名のもとに一見文化の破壊とも言える行為を直接的では無いが行っているのである。
このような事を述べたからと言って、私は決してナショナリズムを推し進め、日本を混乱の渦に叩き込みたいわけではない。
そう、ただ私は英語が勉強したくないだけなのだ。